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ぽたろスタジアム

兼業イラストレーター、ぽたろのブログです。 これまで描いたイラスト等をご紹介していきます。 イラストの無断転載、加工はお控え下さいますようお願いいたします。

二十歳のベアスタと十九歳のサガン鳥栖と僕。

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コメント

1. 無題

痺れました。
僕は当時、大学生。鹿児島から駆けつけた試合も何度かありました。
あのビビッドなピンクは今でも忘れられません。
そしてサガン鳥栖の初戦も。
思うことは尽きませんが、ポタロさんと同じ気持ちで今もいます。
ツイッターもフォローさせていただいてます。これからもサガン鳥栖を愛する仲間としてよろしくお願いします♪

Re:無題

コメントありがとうございます!
僕の鳥栖やベアスタ、サッカーへの思いを込めて書いた記事だったので、共感して頂けて本当に嬉しいです!これからもどうぞよろしくお願いします(*^_^*)

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二十歳のベアスタと十九歳のサガン鳥栖と僕。

  
ベストアメニティスタジアム20周年ということで、ベアスタの思い出を殴り書きしました。とりとめのない文章ですが、良かったら。





僕たちのベアスタが二十歳になりましたね。全国的に見ても指折りのスタジアムが、そんなに前からあったって、素晴らしいことですよね。鳥栖を愛する人たちにとって、ベアスタの歴史=サッカー観戦の歴史という人も多いんじゃないかと思います。いや、僕がそうだってだけかもしれませんが。

この前のフットボール映画祭で「一番印象に残った試合」についての話題があって、その時話しに出た試合が「サガン鳥栖の最初の試合」。僕も「たしかにその試合が一番だな」と思いました。

1997年ナビスコカップ第1節
鳥栖0-0浦和

スコアにするとこれだけ。
でも、僕にとっては、どんなビッグマッチよりも価値のある試合です。

一番心に残っている試合って、たぶんただの「いい試合」ではなくて、チームや選手に思い入れがあったり、その試合につながるエピソードがあったり、自分自身の何かの節目やきっかけになった日だったり…。そういう試合プラスアルファの何かがある場合が多いのではないでしょうか。

この試合には、そういう「何か」が、これ以上ないくらいたくさん詰まっていたんです。

1992年、PJMフューチャーズと鹿島アントラーズの試合を生で観ました。地元にサッカークラブが来ると聞いて、小学生の僕は飛び上がって喜びました。PJMフューチャーズが、静岡県浜松市から、佐賀県鳥栖市に移転する事になったと言うんです。地元でプロスポーツの試合があるなんて!
JFLのリーグ戦で、初めて観に行ったのはたしか西濃運輸戦だったと思います。あの試合、フューチャーズが5-0のゴールラッシュで勝ちまして、それですっかり虜になってしまいました。勝ったのは嬉しかったけど、楽しかったのは試合だけじゃなかったんですよ。スタジアムの周りにはいろんなお店が出ててまるでお祭りみたいで、フラッグやキャップ、メガホンを買ってもらって、それを身に着けて歩いているだけで、自分もフューチャーズの一員になったような気分で。
それ以来、週末になるとフューチャーズの試合を観に、父と一緒に佐賀陸へ出掛けました。父はいつも仕事で帰りが遅くて、休みの日以外はほとんど話す時間もなかったけど、行き帰りの車の中や、スタジアムではたくさん話をすることができました。普段なかなか話をしない父と一緒に過ごす時間になったことも、僕の中でサッカーの存在を大きくしていったのかなと思います。


まあ、勝つこともあれば負けることもありました。小学生のころは、僕はフューチャーズが負けるとすさまじく機嫌が悪くなっていました。試合の話をしなくても、僕の態度で結果がわかるくらいでした。それでも観に行くこと自体が楽しかったし、勝とうが負けようが、翌日の新聞を切り抜いてスクラップブックに張り付けていたものです。
練習も観に行って、はじめてタタウ選手に握手してもらって、帽子にサインをもらいました。
「僕は一生フューチャーズを応援するんだ!」なんて周りに公言するくらいの入れ込みようでした。
なかなかJリーグ昇格圏内には上がれなくて、周りには「フューチャーズなんて大したことない」だとか言ってバカにする友達もけっこういましたけど、そんなこと僕には関係ありません。オフにはタタウ選手にJリーグのクラブからオファーもありましたが、タタウ選手は「フューチャーズを昇格させるために来た」と鳥栖への残留を明言してくれました。やっぱりね、タタウは良い人だ。なんたって僕が初めてサインもらった選手なんだから!
そう、フューチャーズは今にJリーグに昇格する、すぐにそんなこと言えなくなるぞ!
…って、心の中で思ってました。

クラブがなくなるなんて、夢にも思っていませんでした。

新聞にその記事が出た時、にわかには信じられませんでした。
「Jリーグがこんなに盛り上がってるのに、クラブが倒産するようなことってあるの?」
「大人の人たちがちゃんと考えて経営してるはずなのに、なんでそんなに赤字が増えるの?」
色んな疑問が出てきました。でも、まだ解散が決まったわけじゃない。鳥栖フューチャーズはみんなの夢なんだから、鳥栖スタジアムだってできたばかりだし、きっとチームが存続するように、大人の人たちがなんとかしてくれる。そんな風に考えていました。

でも、現実はそんなに甘くはなくて、ある朝僕が新聞を見ると、一面にデカデカと、鳥栖の解散を報じる記事がありました。僕は新聞を叩きつけて部屋にこもり、泣きました。

タタウ選手も帰国してしまいました。「さよならは言わない」という言葉を残してくれたことに少し救われましたが、なおさら泣かされました。

世の中ってこんなにどうにもならないものなのか。大人に任せてたって何も上手くいかないじゃないか。
幼いながらに、人生で一番の楽しみを奪われる痛みは相当なものでした。どこに怒りをぶつけたらいいのかわかりませんでした。
どれくらい意味があるのかは分からなかったけど、存続を願う署名活動に参加しました。サッカーを観に行く以外の楽しみなんて、世の中にたくさんあると思います。だけど、その時にはもうただの趣味じゃなくなっていました。

署名は5万人以上集まりました。鳥栖のサポーターの皆さんが、全国を飛び回って支援を募ってくれました。
鳥栖を、サッカーを愛する人たちは誰もあきらめてはいませんでした。クラブの存続を願うサポーターの皆さんの活動に加え、他のクラブの方々からの支援もあり、坂田氏をはじめとした多くの方々が尽力して下さったおかげで、新クラブの結成と、特例でのJFL参戦が決定したのです。

解散の時とはうってかわって、新聞の片隅に小さく、設立会見の記事が載りました。写真には、フラッグも、エンブレムもロゴもなく、ホワイトボードに「サガン鳥栖FC」の文字。
もうフューチャーズじゃない。でも、鳥栖のプロサッカークラブが、またJFLからJリーグを目指して戦うんです。
選手は、セレクションで集まったメンバーと、元フューチャーズの選手たち。高嵜理貴選手、田中哲也選手、大森征之選手、森純一選手、鈴木俊選手、松田悦典選手、森保洋選手、工藤圭司選手、島岡健太選手…。高嵜選手はJ1でも活躍した鳥栖の現GKコーチですし、大森選手もJ1で頑張っていましたね。森選手は記念すべきサガン鳥栖の初ゴールを記録した選手です。みんな今でも僕のヒーローです。

フューチャーズじゃないけど、サポーターは変わらない、スタジアムも変わらない。多くの選手とお別れしなきゃいけなかったけど、残ってくれた人たちもいる。フューチャーズじゃないけど、サガン鳥栖は誕生したその瞬間から、僕の大好きなあのクラブと何も変わりませんでした。

最初の試合はナビスコカップ。相手はなんと浦和レッズ。このナビスコカップ参戦も、特例で決まりました。世の中どうにもならないこともあるけど、熱意で動かせることもあるんですね。
グッズなんてありませんから、大体みんなフューチャーズのグッズでした。でも、スタジアム内のポールにはそこかしこに「SaganTosu」のロゴが入ったフラッグが見えます。「もうフラッグができたのかな?」そう思ってよく見ると、全部手作りなんです。
サポーターの方々が力を合わせて作ったフラッグ。白と青のシンプルなデザインでしたが、どんなフラッグよりもカッコよく見えました。

ユニフォームは試合当日に届いたそうです。準備が間に合うものを注文したら青になったそうで、それ以来チームカラーは「サガンブルー」です(当時とは少し色合いが違いますが)。観客席では浦和サポーターの赤が目立っていましたが、ピッチ上の赤と青のコントラストがとてもきれいでした。チームとしての準備期間はないに等しいような状態でしたが、それでも選手たちのプレーからは懸命さ、必死さが伝わってきました。浦和の猛攻を受けながらも無失点でしのぎ続けます。決定的なクロスを高嵜選手が横っ飛びでキャッチしたシーンにはシビレました。
試合は0-0のまま、タイムアップを迎えました。

まさか浦和相手に引き分けられるなんて思っていませんでしたので、結果ももちろん嬉しかったのですが、「また鳥栖スタジアムでサッカーが観れた」それだけで、僕はもう胸がいっぱいでした。

家に帰って、僕は初めて手作りのフラッグを作りました。スタジアムで見たフラッグを真似て、不恰好だけど同じデザインのものを。見た目はそんなに良くないはずなんですけど、どこか誇らしい。買ってもらったグッズを身に付けていた時よりも、鳥栖の一員になれたような気がしました。

子どもの頃、フューチャーズがなくなって、あの試合を観て気づいたことがありました。それは、「サッカーを観れることがどれだけありがたいか」ということです。フューチャーズがなくなるまで全然考えたこともなかった。クラブを作るためにどれだけの人たちの力が必要になるのか。クラブを維持していくためにどれだけのお金が必要になるのか。スタジアムがあるということが、どれだけありがたいのか。スポンサーが一社ついてくれることがどれだけありがたいのか。選手が来てくれる、残ってくれるチームであることがどれだけ素晴らしいことなのか。全部当たり前じゃない。お金の問題もだし、災害とか、テロとか、何かあったらもうサッカーどころじゃなくなってしまいます。お祭りみたいなスタジアムで、みんなと一緒にサッカーを楽しめる。それがどれだけありがたいことなのか。
だから、僕はサッカーを観られるならそれだけで満足です。それ以上に求めることなんて何もありません。

「応援するチームが負けて悔しかった、辛かった試合」はあっても「行く価値のない試合」は存在しないと思っています。「チームのレベルが高い(低い)試合」はあっても、「つまらない試合」は存在しないと思っています。サッカーがそこにあることが幸せなんです。それを気づかせてくれたのが、あの試合だったんです。

鳥栖スタジアム(現ベストアメニティスタジアム)ができて20年。

いつまでも、僕らの週末にサッカーがあり続けますように。
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1. 無題

痺れました。
僕は当時、大学生。鹿児島から駆けつけた試合も何度かありました。
あのビビッドなピンクは今でも忘れられません。
そしてサガン鳥栖の初戦も。
思うことは尽きませんが、ポタロさんと同じ気持ちで今もいます。
ツイッターもフォローさせていただいてます。これからもサガン鳥栖を愛する仲間としてよろしくお願いします♪

Re:無題

コメントありがとうございます!
僕の鳥栖やベアスタ、サッカーへの思いを込めて書いた記事だったので、共感して頂けて本当に嬉しいです!これからもどうぞよろしくお願いします(*^_^*)

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